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はじめまして [ルーツ]

はじめまして。
(この記事はBLOG登録した時点のものです)

1980年頃の自転車ブームをきっかけに自転車を始め、途中ブランクを経て
再び多摩サイをメインに走っているアラフィフおやじです。

ブログには馴染まないとは思いつつ、
プロフィールを兼ねて昔の武勇伝(?)を一気に記載します。
と言っても、今見返すと別人のようですが。。

共感できる方は殆どいないと思いますが、同時代を過ごされて、暇な方はromしてください。写真はありません。
私が本格的に自転車に乗り始めたのは、高校時代の先輩(S氏)の影響に依るとことが大きいです。
当時彼がスポルティーフで、私は5速のウインカー付き関根自転車でした。
長距離ランには基本的に憧れがあったので、今度一緒に行こうかという話が挙がった際に、
これではいかんと、ウインカーブロックを取っ払い、そこそこ軽量化を果たしたものの、
いまいちカッコがつかなかった思いがあります。(と言いつつも奥多摩なんぞ行きましたが)
間もなく宮田ルマンを入手し、現在も(!)跨っています。

それでは、記録紛失して記憶のみとなった走行記憶と、現存するメモ帳に記録されている25回、
そのあとの記録なしの Long Ride を掲載します。
ちなみに下記川崎とあるのは、ほぼ川崎大師です。

では、最初に初期の記憶のみとなったものです。

1978. 江ノ電視察
川崎-武蔵中原-中原街道-桜ヶ丘-鵠沼-稲村ヶ崎-(ここから先記憶があいまい)

港北ニュータウンはまだ構想段階で、中原街道は直線でした。
2-3年すると工事が始まり、山肌を削った暫定道路で大きく蛇行させられたのを記憶しています。
日の出前の中原街道には、小さなピークごとに、道の上に黄色いランプが点滅していました。
鵠沼では江ノ電脇の道を選んで走りました。
今では有名な七里ガ浜の線路沿いの小道も走りました。

1978.
川崎-府中街道-連光寺-平山橋-大和田橋-高尾-大垂水峠-相模湖大橋-三ヶ木-(ここから先記憶があいまい)

最初のころは、多摩サイを利用せず、なぜか車道ばかり走っていました。
府中街道は拡幅前で、薄暗い梨畑(!)の横を進みます。
大丸や桜ヶ丘も再開発前で細く、連光寺の関戸橋へのショートカットの道はありません。
平山の京王線の跨線橋もありませんでした。

1978. 
川崎-国道15号-国道1号-権太坂-(記憶なし)-大船-腰越-(ここから先記憶があいまい)

大船-腰越間の有料道路が日本最初という情報を聞き、見に行ったものです。
モノレールはすでにあり、その下を興味がてら上っていきます。
腰越まで来ると、おもむろに集金カバンをおなかの位置に提げたおじさんが出てきて
50円(だったかな?)徴収されました。経営は、確か京急系だったかと思います。
今では完全フリーですが。
そこから真っ直ぐ先に行けたところを見逃して、左の小道に入り込み、しばらく迷ってしましました。

1978.
川崎-国道16号-走水-観音崎-浦賀-野比-三浦海岸-鋒(とがり)-城ヶ島大橋-城ヶ島-134号-葉山-(ここから先記憶があいまい)

鋒から三浦台地へと上って行き、視界が開けたのがちょとした感動でした。
今ではいろんな道ができたようですね。
城ヶ島大橋ではしっかり料金を徴収されました。
葉山の御用邸近くでは朱色の欄干の橋が印象に残っています。(今でもあるか不明)

1978.
川崎-国道15号-国道16号-六浦-鎌倉-江ノ島-藤沢橋-国道1号-国道15号-川崎

小坪トンネルなぞ、なんとも無く通りました。
この時だったか、帰り道で横浜バイパスに入り込んでしまい、
トラックの車輪を横目で見ながら必死に戸塚料金所まで行き、
料金所の手前を死ぬ気で横断をしました。当然クラクション鳴らされまくりです。
当時はそこから一般道に出れるところがあったのですが、現在はありません。
それほど迷うことなく東海道の1号線に出れたと感じていますが、現在の地図をみると、
どう通ったのかさっぱりです。

ここから記録に残っていいるものです。

1回目 関根サイクルで奥多摩湖
1979.3.?
川崎-多摩サイ-青柳-奥多摩街道-青梅街道-奥多摩湖-青梅-多摩湖-府中街道-是政-川崎

5段変速の関根自転車改で奥多摩湖に行きました。
確かずっと TOP ギアで走ったと思います。
文化部所属でしたが、中学では運動部だったので、まだ体力がありました。
立川の青柳から上流にサイクリング道路が存在していた(?)ことを知らず、車道を走ります。
このころの奥多摩街道は、昭島の宮沢交差点から先のバイパス(新奥多摩街道)が存在せず、
旧道を通ります。
奥多摩街道も、新しい隧道は無く、ダンプがすれ違えるぎりぎりの区間がありました。
記憶に残っているいやな思い出として、この区間で対向してきたダンプに明らかに幅寄せをされ、
しかも排ガスを浴びせられたことです。
今ふうに言えば、超ムカつきました。
現在もえぎの湯があるところです。

2回目 S氏と一緒に奥多摩湖
1979.3.? with S氏
川崎-多摩サイ奥多摩街道-青梅街道-奥多摩湖(反転)

奥多摩駅の出口の階段で腰を下ろし休憩したのを覚えています。
現在の駅舎も当時のままのようですね。
登山者が S氏に話しかけて来て、私の自転車(関根改)を見て、言葉を無くしていました。

3回目 ルマン号で奥多摩湖
1979.4.1
川崎-多摩サイ-奥多摩街道-青梅街道-奥多摩湖-丹波村郵便局前(反転)

ルマン号を入手して最初の Long Ride です。
軽い。
行けるとこまで行っちゃえ!ってことで、時間が許す限りのところまで行きました。

4回目 西武園の機関車を見に行く

川崎-多摩サイ-是政-府中街道-西武サイクリングコース-多摩湖-西武球場(反転)

当時西武園の多摩湖側には線路があり、割りとまともな蒸気機関車が走っていて、
それを目当てに行きました。

5回目 江ノ島ぶらり

川崎-横浜-浦賀-雨崎-三崎-葉山-逗子-江ノ島-腰越-藤沢-横浜-川崎

ひたすら海岸線に近いところの道路を走りました。

6回目 日原鍾乳洞観光
1979.11.24 with O氏
川崎-多摩サイ-奥多摩街道-青梅街道-奥多摩駅-日原街道-日原鍾乳洞(反転)

高校の同期の O氏と一緒に走りました。彼もハヤリのスポルティーフでした。
当時の日原街道の一部は跡形も無くなって、崩壊してしまったそうですね。
鍾乳洞は、昔の人の信仰の対象で、観光の対象ではなかったらしく、
ススの跡が鍾乳洞というイメージを打ち砕きます。
また照明の近くが緑化されているのも気になりました。

7回目 江ノ島・三浦ぶらり
1980.3.3 with O氏
川崎-横浜-藤沢-江ノ島-逗子-葉山-三崎-浦賀-横浜-川崎

すいません。記憶が乏しいです。。。

8回目 半原-大垂水ラン
1980.3.16
川崎-横浜-鶴ヶ峰-大和-大塚-厚木-相模大橋-半原-中津川渓谷-相模湖-大垂水峠-八王子-府中川崎線-多摩サイ-川崎

宮ヶ瀬ダムなんて当分出来ないものと思っていました。
と思いつつ、石小屋の地点で写真を撮りました。
中津川渓谷の道は全線ダートで、気温が上がるにつれ、崖から小石が落ちてきます。
ところどころ、落石用の赤さびたシェルターがありました。
当時の流行の歌謡曲が頭のなかでリピート再生しながら坂を登ります。

9回目 秩父
1980.4.2
川崎-東青梅-小沢峠-山伏峠-秩父-R140-落合(反転)

この当時の成木街道の吹上トンネルは旧道が現役でした。
思い違いか、ジェットエンジンのような形をした換気扇があったと思います。
坂を下りたところの交差点を、勢いに任せ直進してしまい軍畑の方角に数キロ進んでしまい、引き返します。
名栗街道も民家の脇の旧道しかありませんでした。
山伏峠の手前の民家の前で犬に吠えられまくります。遅いから怪しいと思われたのでしょうか?

10回目 山中湖-松姫峠-奥多摩
1980.6.22
川崎-国道15号-横浜-国道1号-久保町-国道16号-橋本-津久井-道志-山伏峠
-山中湖-富士吉田-大月-松姫峠-奥多摩湖-青梅-立川-川崎

保土ヶ谷バイパスはすでにありました。国道16号は旧国道を進みます。
当時は鶴ヶ峰を過ぎると片田舎状態でしたが、相模大野近くで道が太くなり、相模原まで太かったです。
橋本交差点も単にだだっ広いだけの交差点でした。今は立体交差ですね。。。
変電所前のところが資材置き場になっていて、暗い中、用を足します(小さい方。すいません。。)。
橋本交差点を左折したところは大きな工場で、引き込み線もあり、しばらく並走します。
この道はオリンピック道路と呼ばれていた(今でも?)と思います。
明け方に、津久井湖の近くで、跳ねられたての死んだ猫が道の真ん中に横たわっていました。
ぼろぼろにならないように前足を持って道路脇に移動してあげました。死に顔と感触は今でも忘れられません。
当時の道志街道はショートカット橋など無く、ダート区間が多くありました。
また山伏峠のトンネルは、現在では使われていない荒削りの細いものでした。
トンネルを抜けると、こジャレたホテルがありましたが、今でも存続しているのでしょうか。
大月まで一気に下り、奥多摩を目指して上ります。
松姫峠ではクルマで来たご一家の方々がシートを敷いてお食事中でした。
私も石碑の前でおにぎりを食べました。
当時はコンビニなどは田舎に無く、おにぎりは母親に作ってもらい、持参するしかありません。
今では松姫峠近辺、全然変わってしまったようですね。

11回目 軽井沢日帰りラン
1980.8.10
川崎-大森橋-新馬場-大和陸橋-高崎-軽井沢(反転)

300km 超えの長距離ランとして、ハイソなブランド軽井沢を選択しました。
横川から軽井沢までの間、線路と絡んで進みます。
あのレンガ作りの橋も当時現役でした。
道にはコーナーごとに番号が振ってあり、No162 で休憩しました。
そこには山の水が流れていて、非常に旨かったです。
すぐ上には線路があり、通っていく列車の少女と目が合ったような気がしました。
軽井沢の駅で反転しました。

12回目 丹沢観光
with O氏
川崎-中原-伊勢原-坂戸-ケーブル乗り場-善波峠-秦野-ヤビツ峠-馬場-別所-厚木-相模大塚-市ヶ尾-川和-小倉-川崎

O氏の誘いで大山界隈を探索。
ヤビツ峠に自転車を停めて、O氏と大山まで走って往復しました。元気だったな。
宮ヶ瀬の学校では、子供たちが元気に走り回っていました。

13回目 鋸山林道
with O氏
川崎-八王子-五日市-田倉-神戸-(鋸山林道)-氷川-福生-二宮-滝山-昭島-川崎


O氏は檜原街道のバス停おにぎり(鬼切)がひどくお気に入りのようで、
到着すると、そこの駄菓子屋さんで菓子パンを買って休憩しました。
鋸山林道では、峠のすぐ先の氷川側が土砂崩れしていましたが、担いで越えました。

14回目 秩父
1980.12.14
川崎-東青梅-小沢峠-山伏峠-落合-秩父-三峰口-秩父-飯能-箱根ヶ崎-拝島-川崎

当時、芦ヶ久保では屋外スケート場があって賑わっていました。今では想像できませんね。
当時の武甲山は多少えぐれていましたが、稜線はそれほど違和感がありませんでした。
いまではかなり悲しい姿になっていますね。

三峰口からの帰り、葬式をしている家の前で釘を踏み前輪をパンク。
修理するもパッチの接着がイマイチだったので前輪の様子を覗きこみながら坂を下っていくと、
前輪の横を白線が寄って来るではないですか!
白線の横には腰の深さほどもある側溝が迫ってきています。
体制を立て直すことは出来ず、自転車ごと落ちると足が逝ってしまいそうなので
飛び降りるしかないと判断。うつ伏せ姿勢でスライディングです。
結局自転車もろとも側溝に落ちました。
気がつくと、カブに乗ったお爺さんが止まっていて私を見ています。
全身に痛みを感じつつ、照れくさそうに起き上がります。
お爺さんは何も言わず去っていきました。(これ以降、秩父人に偏見を持っています)
被害状況を確認します。頭は打っていませんが、Gパンの下のひざを激しく擦りむいているようです。
左手首の甲側を怪我しており、腕時計のバンドがちぎれ、どこかにいっています。
側溝の枯れ葉の中を捜索して回収します。
ルマン号は側溝の中で仰向けでひっくり返っており、カバンの中身が全て放り出されていました。
ハンドルと前輪が変形し、シンボルの前照灯やサドルに激しい擦り傷がついてしまいましたが、
何とか乗車可能です。
そこからは、ウインドブレーカー(懐かしい)はボロボロで、ハンドルがひしゃげ、前輪がレロレロになった
非常に惨めな格好で川崎まで帰ってきました。
ハンドルは交換しましたが、サドルは武勇伝(?)のため、存続してます。


15回目 犬越路林道
1981.5.2
川崎-橋本-音久和-犬越路峠(トンネル)-丹波湖-山北-小田原-茅ヶ崎-川崎

今では犬超路林道は、長者舎より先が走れなくなっているようです。
峠には立派なトンネルがあり、照明もギンギンでした。
作るのが目的の林道だったのでしょうか?


16回目 日光日帰りラン
1981.8.30
川崎-日本橋-草加-小山-宇都宮-今市-日光-今市-鹿沼-壬生-小山-川崎

長距離ランとして、軽井沢に続いて小学校の修学旅行で行った日光を選びました。
三田と銀座で、おまわりさんに職質を受けてしまいました。なんで?
杉並木は日陰があって良いのですが、道幅が狭く怖かったです。
日光で歩道を走っていると、新聞配達店の2階から、なにやら液体を通りに向かって撒かれ、
危うく被るところでした。そこで萎えて反転しました。
今市から例弊使街道に入ってしばらくすると、ちょっと見晴らしがよくなって
右側に電車が走る土手のようなものがあったのを覚えています。

17回目 宮ヶ瀬
1981.9.6 with O氏
川崎-横浜-二俣川-厚木-半原-宮ヶ瀬-半原-上溝-淵野辺-鶴川-登戸-川崎

宮ヶ瀬ダムは、工事の気配もありません。
記念橋近くの民家で、剥ぎたての熊の毛皮を干している家がありました。猟師さんの家だったのでしょうか?
落合橋で川原に下りて休憩します。
御屋敷への登り道の途中にニワトリ小屋があって、異臭のため呼吸困難になりながら登坂しました。

18回目 秩父
1981.12.27
川崎-立川-東青梅-小沢峠-山伏峠-秩父-秩父湖-秩父-正丸峠-飯能-箱根ヶ崎-立川-川崎

小沢峠を下ったところが凍結していて慌てました。
霜が踏まれたところが凍っていて、そうでないところは大丈夫なんですよね。
この当時、正丸トンネルはまだありません。

19回目 奥多摩周遊道路
1982.4.11
川崎-福生-五日市-本宿-数馬-風張峠-川野-氷川-古里-青梅-川崎

風張峠を下ったあたりで、他人の事故に遭遇しました。
私を追い越して行く少年が乗ったバイクがはみ出して、
目の前で対向してきたバイク同士で衝突しました。
衝突の際に飛び散った油をかぶったくらい至近距離で、彼は人形のようにバイクと一緒に
左側の石壁に転がって行き激突。友人らしい少年一人が駆け寄ってきて話しかけるも、
うーん、うーんとうめくのみ。ヘルメットは砕けていました。
体をゆすって話しかけようとしているので、血栓を起こすことがあるので、
動かさない方が良いと言ってあげました。そのうちうめき声もなくなっていきます。
対向の方は足が逝ってしまっているようです。
一応目撃者なので、警察の聴取が済むまで、そこで待機することにしました。
救急車の音が聞こえてくるも、なかなか到着しません。
というか、ずっと遠くを走っているのが見えます。
救急車は 20-30分くらいで到着し、そのあと警察に証言しました。
1時間位して再開しました。
自分が原因のひとつであったのか、などと考えながら悶々として帰って来ました。
彼はどうなったか判りません。


20回目 富士山一周ラン
1982.6.6
川崎-橋本-城山ダム-三ヶ木-山伏峠-山中湖-富士吉田-河口湖-本栖湖-富士宮-富士-沼津-箱根峠-元箱根-姥子-宮下-小田原-茅ヶ崎-川崎

当時は郷ひろみと松田聖子が全盛期でした。
富士吉田から河口湖の先にかけての道中、頭の中で2人の歌がずっとリピート再生していました。
今でもこの区間をクルマで通るたび、「すてぇーきにぃー、あーあー、なーんーという・・」と頭の中がコダマします。
当時走った精進湖近くの道路は、現在では廃道になってしまいました。
本栖湖を過ぎたあたりにあるピークを超えると展望が開け、一気に下ります。
富士宮道路では、誤って自動車専用区間に入ってしまい、1区間分お邪魔しました。料金所のおじさんに怒られました。
三島からの箱根峠への途中の保育園に勝手にお邪魔し、庭にある蛇口の水をいただきました。

21回目 丹沢山
1982.8.22
川崎-半原-落合-塩水橋-堂平-(担ぐ)-丹沢山山頂-塔ノ岳山頂-二俣-(乗る)-渋沢-秦野-平塚-横浜-川崎

山サイの先駆けになるのでしょうか。尾根道をルンルン走れたらいいなと思って堂平から入山。
砂防ダムを渡った先に、なんと鎖場があり、バラして数回に分けて担ぎ上げました。
途中、山道が笹薮で埋もれたところを難儀して通過したり、熊らしい動物を横目でそっとやり過ごしたりして
なんとか丹沢山山頂に到着。布団を干していた山小屋の横を乗車して通過。一瞬気持ちいい。
尾根道を走ろうとするも、深くえぐられており断念。何しに来たんだか。
塔ノ岳山頂では、話しかけられた方から差し出された水筒の水を、思わず一気飲みしてしまい、
悪いことをしてしまいました。
下りでは、靴の中でつま先がつき指状態になり、苦痛の中下山しました。
帰ってから両足の親指の爪が剥がれてしまいました。


22回目 顔振峠
1982.12.5
川崎-拝島-飯能-正丸トンネル-芦ヶ久保-奥武蔵グリーンライン-大野峠-刈場坂峠-顔振峠-東吾野-飯能-拝島-川崎

記録によると正丸トンネルを通ったことになっていますが、記憶が全くありません。必死だったのかな。
この年竣工していますので、きっとそれ目当てで通ったのでしょう。
奥武蔵グリーンラインでは、最初だけきつかった以外、ほぼ舗装された尾根道を、それほどきつい坂も無く気持ちよく走りました。


23回目 富士山一周ラン2回目
1983.6.5
川崎-橋本-城山ダム-三ヶ木-山伏峠-山中湖-富士吉田-河口湖-本栖湖-白糸滝-富士宮-富士-沼津-箱根峠-元箱根-三枚橋-小田原-茅ヶ崎-川崎

社会人になりましたが、まだ勢いがありました。
今度は自動車専用区間に入らないように、白糸の滝で離脱します。
箱根旧街道の七曲がりでは、風圧によって涙が出まくります。

24回目
1983.8.2
川崎-戸塚バイパス-藤沢バイパス-小田原-箱根湯元-宮ノ下(大雨でモチベ喪失。引き返す)

大雨の中、パンクまでしたので引き返しました。

25回目 箱根
1983.8.7
川崎-戸塚バイパス-藤沢バイパス-小田原-箱根湯元-宮ノ下-箱根峠-三島-大場-熱海峠-熱海-湯河原-つばきライン-大観山-元箱根-旧街道-川崎

箱根近辺の峠を3つ越え、へとへとになったのを覚えています。
熱海峠からの下りでは、クルマ以上の速度が出て、下りきるとリムが触れないくらい熱くなっていました。
また、当時なぜか大観山というのが、ハイソなところと感じていました。

記録なし 会社の先輩と犬越路
1983
川崎-厚木-半原-青山-青根-犬越路林道(反転)

会社にロード乗りの先輩がいて、一緒に犬越路林道を行くことになりました。
無謀なルート選択だということが当日わかりました。
私はランドナーなのでダートはへっちゃらですが(むしろ好き)、
彼は下りを超低速で進みますが、2回もパンクしてしまいます。
すまない気持ちになって、修理完了を待ちます。
帰りの半原でスタミナ切れになり、体力の低下を実感しました。


記録なし 奈良田-広河原
1984.8
クルマを入手し、自転車を載せて南アルプスに出かけたことがあります。
中央高速で甲府南まで行き、夕方から丸山林道に入り、真っ暗の中進んで行き奈良田に出ます。
そこでクルマを停めて夜明けを待ちます。
自転車を組み立てて、北沢峠を目指します。
途中真っ暗で冠水しているトンネルがあり、ダイナモが空回りして役に立ちません。
見えるのは網膜のノイズだけの状態になり、もう進めません。
意を決して、来たクルマの前を走る作戦を採ることにし、ひたすら待ちます。そして顰蹙を省みず実行します。
広河原に到着すると、係りの人に、北沢峠への道は自転車でもダメと言われてしまいます。
今の時代なら、事前の情報収集が楽に出来ますが、当時はこんなもんです。トホホ。
仕方なく係りの人に写真を撮ってもらい、来た道を引き返すことにしました。
広河原には、夜叉神峠からの道が来ており、そちらから来たであろう軽自動車の人が奈良田へ行こうとするのを
工事のダンプの運転手から何か言われています。
そのクルマではこの先ムリだと言われていました。激しく同意です。
自転車に乗っててもふくらはぎの高さくらい冠水しているところがあるんだってば。


このあと、しばらく自転車から離れてしまいました。

むしろクルマに乗って、かつて自転車で走ったところをトレースするようなことをしていました。
今では廃道化が進み、もう走ることも(簡単には)見ることもできないところが多くなりました。

また、変わり行く宮ヶ瀬をクルマで通るたび、悲しい気持ちになりました。
一昨年(2006)ダムサイトのあいかわ公園に家族でクルマで行き、昔通った道を探しましたがよくわかりませんでした。

自転車の保管は屋内だったのですが、10年ほど前に家を建て替えた際にガレージに保管することにしたため、
じわじわと錆びが発生・進行してしまいました。

自転車には、ぽちぽち乗ってはいたんですが、同年代で山サイをやっておられる方の HP を拝見し、
また、その気になって、ルマン号をレストア(といっても錆落とし&磨き程度+簡単な部品交換)し、
多摩サイ近辺を再び走るようになりました。

今では(2008年暮れ現在)、風張峠に行けるまで回復しました。
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